杵島 充希(きじま みつき)は大手企業・大和田グループの社長の娘。 そんな充希は大和田グループとライバル関係にある杵島グループの社長・杵島 宗司(きじま そうじ)と結婚をする。 しかし、この結婚は偽装結婚で、三年間という期間限定で離婚する「白い結婚」だった。 だが、結婚二年目の節目の日に、充希と宗司は白い結婚の誓いを破り、一線を越えてしまう。 このことで双子を妊娠した充希は、これを機に、偽装結婚ではなく本当の夫婦として暮らすことを宗司に提案しようと考える。 しかし、妊娠が判明したその日に、充希は宗司から離婚届を突き付けられてしまう。
View More「杵島 充希(きじま みつき)さん。どうぞお入りください」
レディースクリニックの係の方に、そう呼ばれた私は診察室に入る。
診察室では産婦人科医で、私の親友でもある藤堂 幸恵(とうどう さちえ)が険しい顔でパソコンのモニターを睨んでいた。
幸恵が見ているのは私の妊娠についての検査結果だ。 私は幸恵の表情の厳しさに緊張し、彼女を刺激しないよう静かに椅子に腰を下ろすと、検査結果が告げられるのをじっと待った。やがて幸恵は険しい表情のまま、ゆっくりと私に向き直る。
「間違いないわね。充希、あなた妊娠しているわよ」
幸恵にそう告げられた私は、喜びの表情がパッと花開いたが、次の瞬間、その笑顔は急速にしぼんでいった。
何故なら、私には妊娠を素直に喜べない事情があったからだ。
* * *私こと杵島 充希は、結婚前の旧姓は大和田 充希で、国内を代表する大手企業・大和田グループの社長の長女だった。
そして私は大和田グループとシェアを二分するライバル企業である杵島グループの社長・杵島 宗司(きじま そうじ)と結婚をしていた。しかし、この結婚は偽装結婚で、三年間という期間限定で離婚する「白い結婚」だった。
そもそもこの結婚自体が両社の絆を深める為の政略結婚だったのだが、夫の宗司が、そうした本人が望まない結婚はすべきではないという考えで、私に偽装結婚───それも三年という期間限定で離婚する「白い結婚」を提案してきたのだ。
そして期限である三年は、すでに二年が経過していた。
つまり私は来年、離婚をする。 そんな私が妊娠をしたことは、由々しき事態だった。担当医の幸恵は私の結婚が偽装結婚だということを知っていた。
なぜなら私が、親友でもある彼女にそのことを相談していたからだ。 その為、幸恵は引き続き険しい顔で私を問い詰めてきた。「充希、あなたの結婚って偽装結婚で、三年で離婚する期間限定の「白い結婚」だったわよね?」
幸恵の圧力は大きかった。
私は親に叱られる子供のように「はい。そうです」としか答えられなかった。「じゃあ、なんで妊娠してるの? 「白い結婚」の誓いはどうしたのよ?」
そう問い詰められた私は「それは……」と口ごもる。
すると幸恵はある考えに行き着いたようで「ま、まさかっ……!?」と目を見開いた。
私は幸恵が何を思ったのかをすぐに察した。
「ち、違う! 宗司さん以外の男の人と、そんなことしないから!」
私が慌てて否定すると、幸恵はすぐに「そうよね。充希に限ってそんなことはないわね。幸いあなたはそういうことはできなさそうだもんね」と納得してくれた。
「でもじゃあ、なんで妊娠しているのよ?」
幸恵は尚も追及してきた。
観念した私は「実は先日、私たちの結婚が二年目の節目を迎えて……」と経緯を語り始めた。「偽装結婚なのに結婚二周年のお祝いをしたの?」
幸恵は眉間に皺を寄せ、意味が分からないといった様子だった。
「違うの。どちらかというと、お互いに二年間お疲れ様という感じで……。それと結婚期間が、あと一年になったことを祝うというか───あと一年、頑張って乗り切ろうというか……。
それで少し豪華な夕食を用意して、ワインのボトルを開けて乾杯をしたんだけど、そしたら二人とも少しワインに酔っちゃって……。そしたらなんだかそういう雰囲気になって、それでつい───」そこまで話すと幸恵は手を振って「もういい。わかった。それ以上は言わないで」と私を制した。
「でもまさか妊娠するなんて……。本当にごめんなさい」
「私に謝られてもお門違いよ。それよりどうするの? 結婚の残り期間はあと一年よね?」
心配した幸恵は私の手を握り、じっと私を見つめた。
私は親友の手を握り返しつつ「とにかく宗司さんに相談してみる」と返事をした。
* * *診察を終えた私はお会計を済ませ、レディースクリニックを後にする。
その際、私は改めてバッグの中を確認した。 私のバッグの中には、クリニックの名前が印字された封筒が仕舞われていた。 中には二通の『大切な書類』が入っている。 それは先ほど、診察室を出る前に幸恵にもらった書類だった。 * * *「はい。充希、これを渡しておくわ」
幸恵はそう言って二通の用紙を私に差し出した。
私がその用紙を確かめると、そこには「妊娠届出書」と書かれていた。「これは?」
私は初めて見る用紙に戸惑った。
「この用紙に必要事項を記入して役所へ届け出ると、母子手帳がもらえるの」
「そうなんだ」
私は受け取った妊娠届出書をしげしげと眺めた。
「でもなんで二通あるの? 書き損じ用?」
私がそう尋ねると、幸恵は意味ありげにニヤリと笑った。
「違うわよ。二通あるのはそういうことよ」
「そういうこと? え? どういうこと───」
そこまで言いかけて、私はハッとする。
その様子を見て、幸恵も私が意味を理解したことを察したようだ。「そうよ。充希は双子を妊娠しているのよ」
* * *私は封筒をバッグに大切に仕舞い、慎重にエントランスの階段を降りた。
自然と階段を降りる足取りが注意深くなる。 なぜなら私の身体は、もう私一人だけのものではないからだ。 私は命を預かるという責任の重大さを感じ、用心深く歩みを進めたが、帰路に就く足取りは軽かった。「お、おお? おおおおお……」 宗司さんが双子の赤ちゃんを抱いて、感動に言葉を失っている。 無事、出産を終え、ぐったりとしていた私は横目でその光景を眺めた。 宗司さんはとても嬉しそう。よかった。でも宗司さんは赤ちゃんの抱き方に慣れていないみたいでぎこちない様子。とても危なっかしい。宗司さん、どうか赤ちゃんを落とさないでね。「充希、ありがとう。本当にお疲れ様。俺たちの子どもは女の子と男の子の双子だ。二卵性の双生児だったんだ」 宗司さんはそのことを何度も口にした。 それだけ喜びが溢れてしまっているんだと思った。「まさか俺が離婚届を突きつけた日が、充希がこの子たちの妊娠に気づいた日だったとは知らなかった。なんて日に俺は離婚届を突きつけていたんだ。本当にすまなかった。 でもこの二人の鼓動に気づかされた。俺は充希が好きだ。子どもの頃、初めてあったその時に───あれは大物政治家の政治資金パーティーだったが───その会場で、とても凛とした姿で、堂々と大人たちに挨拶をして回る充希の姿に俺は目を奪われていた。なんて大人びた女の子なんだ、と。充希と俺が同い年だと知って本当に驚かされたよ」「私も、その時のことは本当によく覚えている。あれは父に言われ、そうするよう繰り返すだけの、ただの「行為」でしかなかったけど、周囲の大人たちが私を褒めてくれるので、嬉しくてそうしていたの。でもそれはただのロボットで、自分じゃない。そう気づかせてくれたのは宗司さんだったのよ。あの瞬間に私は籠の扉を開けられ、外に飛び立った小鳥のように解放されたの」 宗司さんは双子の赤ちゃんを私にも抱かせてくれる。 そして双子を抱く私を、宗司さんは赤ちゃんも含めて抱き締めてくれた。 ───赤ちゃんの鼓動。 ───そして宗司さんの鼓動も私に伝わる。 ───それはもちろん私の鼓動も赤ちゃんに、そして宗司さんに伝わることを意味している。 赤ちゃんたちの二つの鼓動。 さらに私と宗司さんの二つの鼓動。 二つの二つの鼓動に私は気づかされる。 ───とても幸せだ。 言葉にすると、とてもシンプルだけど、今までわかったつもりでいた「幸せ」という言葉とは、今はまったく意味が違ったものになったことに私は気づかされた。「これから幸せな家庭を築こう、充希。俺たち二人で、そして子ど
───数か月後。 私はついにその時───臨月を迎え、幸恵のレディースクリニックに入院をしていた。 ───それは正午を少し回った頃だった。 レディースクリニックの院内が俄かに騒がしくなり始める。 産婦人科医のお医者様や看護師の皆さんが手際よく出産の準備を開始した。 そして分娩室の明かりが灯される。 ───いよいよだ。「さ、幸恵部長。俺はどうしたらいい? 夫が妻の出産に立ち合うとかどうするんだ?」 宗司さんが珍しく幸恵の後をついて回る。 いつもなら、どちらかというと幸恵が来たら逃げるように距離を保っていた宗司さんが幸恵に自ら近づくなんて、なんだか不思議な光景。 私はその景色が珍しくて、ただただ眺め続けた。「宗司! うるさい! あんたは外! 待合室でコーヒーでも飲んで座っていて!」 幸恵が宗司さんを閉め出す。 宗司さんが可哀想。ごめんね、宗司さん。すぐに終わるから少しだけ外で待っていてね。「充希、それじゃあ俺は外にいるから。扉のすぐ外にいるから。何かあったらすぐに俺を呼ぶんだ。呼ばれたところでどうすればいいのかわからないが、とにかく俺を呼ぶんだ」 宗司さんはそう言って私の手を握る。 私は宗司さんの手を握り返し「大丈夫よ、宗司さん。心配しないで。出産なんて多くの人が経験している人類の営みよ。当たり前のことなんだから大丈夫。それに幸恵が私のお産を担当してくれるんだからなんの心配もいらないわ」と、微笑んで見せようとしたが───。「───ッ! ───う、ぐッ! ───く、うッ……!」 私は猛烈なお腹の痛みで、そんなことをする余裕は全くなかった。 なんなのこの痛みは……。 痛い。本当に痛い。 これが陣痛というものだということはわかっているけど、この痛みは本当にこれであっているの? 私の場合、双子の出産だから、通常の出産と違って痛みが二倍になっているのかしら? 幸恵は一人の出産も双子の出産も痛みは一緒よと言っていたけど、世の中全てのお母さんがこの痛みを経験しているなんて信じられない。 ベビーカーに子どもを乗せて、街を歩くお母さんの姿をよく見かけるけど、皆さんこの痛みを経験し、乗り越えられているというの? 本当に? こんな痛みを経験しているのに、よく何事もなかったように普通にしていられ
宗司先輩が退院する。 いてもたってもいられず、私は病院にやって来たが、充希と幸恵部長がいるので宗司先輩に近づくことはできない。 でも、それでもいい。 宗司先輩が退院する元気な姿を見られただけで、私は満足だ。 ───私もあの輪の中にいたい……。 ───私も一緒に宗司先輩の退院を祝福したい……。 そんな気持ちに駆られる自分を少し感じたが、私は頭を振ってそんな考えを振り払った。 ───充希と一緒にそんなことはできない。 ───充希と一緒にそんなことはしない。 ───充希にだけは……。充希にだけは……。 私は無意識に手を強く握った。 爪が喰い込み、自分で自分の手を傷つけてしまいそうだった。「それ以上は強く握らない方がいい。手に傷がつくし、爪も痛む」 急に声をかけられ、私は身体を強張らせるほどに驚いた。 振り向くと一人の医師が私のすぐ後ろに立っていた。 胸のネームプレートには種村 崚佑と書かれている。 ───充希と一緒にいた男性医師だ! 私はこの医師のことをすぐに思い出した。「君のことは知っている。よくお見舞いに来ていた」「な、なんですか、あなたは。急に声をかけないでください」「僕は種村 崚佑。この病院の産婦人科医」「そ、そんなことを聞いているんじゃないんです。見ず知らずの人なのに、急に話しかけないでくださいと言っているんです」 なんなのこの男は。 初対面の人に対する遠慮とか、距離感っていう気遣いが欠如しているの?「君は道端に捨てられ、雨に濡れる子猫みたい。必死で叫び、鳴き声をあげているけど誰も助けてくれない。その事に怒りをあらわにしているけど、それは自分を守るため。そして自分を守るためにそうしなければならない自分が嫌で、ますます怒っている。 君が欲しいのは、とても些細な幸せ。誰か一人でも自分に寄り添ってくれる人が欲しいだけ。でもそんな些細な望みが叶えられない自分を悔しく思っている。 それに……。 ……君が自分に寄り添って欲しいと思っている人を、君は一番に憎んでいる。 ───その相手は恋人か両親、または兄弟姉妹……。 誰かはわからないけど、かなり拗れている。そんな拗らせ方じゃ、望むものはますます手に入らな
そして、いよいよ宗司さんが退院をする日を迎えた。「忘れ物はない? 退院の手続きもちゃんと済んでいるわよね?」 母・碧は心配そうだった。「大丈夫。忘れ物はないよ。退院の手続きも私がちゃんと済ませたし、お会計もしたから、あとは家に帰るだけだよ」 空っぽになった病室を見て、母・碧は少し寂しそうだった。「充希は宗司さんと二人の家に帰るのよね? 私の家に置いてある荷物はどうする? あとで取りに来る?」「もともと何も持たずに家を飛び出して、そのままお母さんの家に入れてもらったから、荷物なんて歯ブラシとちょっとした着替えくらいだし……。でも後で片付けも兼ねて取りに行くから、少しの間だけ置いておいて」「また、もしもの時の為に、そのまま置いておいてもいいのよ?」 母がそう提案してくれたが、私はしっかりと首を振った。「もう二度と、そういった「もしもの時」はないようにします。私は絶対に宗司さんの手を離しません。宗司さんのもとを離れません」 私がそう述べると、母は「確かにそれもそうね」と納得してくれた。「お母さん、お世話になりました」 宗司さんが母・碧に頭を下げる。「そして、すみませんでした。自分が至らぬばかりに充希を悲しませてしまいました。もう二度とこのようなことはしません。必ず充希を守り、幸せにしてみせます」 母は宗司さんの手を取ると、宗司さんに頭をあげさせた。「宗司くん、自分を責めないで。夫婦なんだから、そりゃ、いろいろあるわよ。私は宗司くんと充希についてなんの心配もしていません。二人は子どもの頃から本当にお似合いのカップルだったんだから」 子どもの頃の話を持ち出されて、私と宗司さんは少し気恥ずかしく思った。「宗司くん、こちらこそ充希を宜しくお願いします。私が言うのもなんだけど、充希は本当に立派な娘です。自慢の娘です。私の大切な娘です。だからどうかどうか幸せにしてやってください」 そして母は私の手を取ると、宗司さんの手に重ねた。「充希も、しっかり宗司くんを助けてあげてね。支えになってあげてね」「うん。任せて、お母さん。もう二度と心配をかけるようなことはしないよ」「それから産まれてくる子どもたちのこともしっかり頑張るのよ」 最後に母がそう言うと、にわかに宗司さんが慌てだした。
「充希、寒くない? ブランケットをもう一枚使う?」 晩秋の候、私と幸恵はキャンプ場に来ていた。 幸恵は近頃、アウトドアに傾倒し、しばしば日帰りキャンプに出かけていた。 いつの間にかキャンプグッズもたくさん買い揃えられ、とても充実したアウトドアを楽しむことができるようになっていた。 私は、おしゃれで便利なキャンプ道具を手に取り、幸恵が傾倒して、こうしたキャンプ用品を買い集める気持ちに共感していた。「ありがとう、幸恵。大丈夫だよ。このキャンプ用のブランケットがとても温かいから。このブランケットはすごいわね。軽くて薄いのに、風も通さず、肌触りも柔らかで、キャンプだけじゃなく、オフィスでも使いたいと思えるくらいだわ」 私がそう絶賛すると、幸恵は自分のことを褒められているように喜んだ。「そうなの、そのブランケットは断熱アルミシートが入っているから保温性が高いの。それに水も弾くから急な雨に降られても、そのブランケットを被れば雨を凌げるんだから」 嬉しそうに説明をしつつ、幸恵は慣れた手つきで焚火の支度を進める。「さあ、それじゃあ、充希。「例の物」をお願いね」 すっかり焚火の準備を整えた幸恵は、後はいよいよ点火をするだけとなった。 その段になって、幸恵は私に「例の物」を用意するよう促す。 それは、私がサインをした離婚届だった。 私は封筒から離婚届を取り出すと、改めて自分のサインを見返した。 当初は、もう二度と見たくないと思ったサインだったが、今は私にとって、このサインは重要な意味を持つようになっていた。「このサインは私の弱さの象徴だわ。このサインを見ていると、過去の自分を見ているように思える。それは誇れる自分じゃないけど、そうした自分があったからこそ───そうした自分が嫌だからこそ、自分を成長させようという気持ちが湧いてくるわ」「それはちょっとわかるわ。誰だって恥ずかしい思いや悔しい思い、他にも失敗とか苦い経験を持っている。問題は、そうした後悔に押しつぶされない事ね。逃げずに向き合い、乗り越えることができれば、また一つ、自分を成長させることができるもんね」 私と幸恵は、少しの間だけ二人で余韻に浸るように私がサインした離婚届を眺めた。「さあ、それじゃあ、そんな昔の弱い充希とはお別れをしましょう」
幸恵部長に突き飛ばされた私は、その場に倒れ込む。 ───相変わらずの馬鹿力で本当に忌々しい。加減というものを知らないのかしら、この女は。 私は憎らしく幸恵部長を睨みつける。 充希は離婚届にサインをしたのよ。自らの意志で宗司先輩の妻の座を放棄したのよ。それなのに何故───何故、みんな充希を庇い、充希を助けるの? ───幸恵部長もそう。 ───宗司先輩の秘書もそう。 ───受付の女もそう。 皆、どうして充希の味方をするの? 正論を述べ、正しいことをしているのは私よ。私こそが正義なのよ。 それなのに何故───。 充希と幸恵部長は去り、警備員も持ち場に戻った。 私は一人、社長室に取り残される。 ───誰も私を気にかけてくれない。 ───誰も私に手を差し伸べてくれない。 突き飛ばされ、倒れた私に見向きもしないで、皆、私の前からいなくなる。 ───どうして……。 でも自己憐憫に浸ってなんかいられない。沈んだ気持ちでいたって何も解決しない。 これまでもそうだった。 私は誰からも愛されず、誰の助けも得られなかった。 だから自分で解決するしかない。自分一人の力で生きていくしかない。 そして周囲を───私を無視し、私の前を素通りしていった者達を見返してやるんだ。 目に涙を浮かべていた私は、あやうく零れそうになった涙を拭い、立ち上がる。 泣いたりなんかしない。私が泣いたって、誰も助けたりしてくれない。誰も優しい言葉をかけてくれたりなんかしない。誰も私の涙を拭ってなんてくれない。私は自分で自分を愛し、自分一人で生きていくしかないのだから。 自らを取り戻した私は社長室を出る。 するとすぐに声をかけられた。「どうした? 何かあったのか?」 私は少し驚きつつ、声の相手を振り返る。「あ、あなたは───」 私は声の主が誰であるかがわかり、さらに驚いた。「あなたは、杵島 巧三会長───!」 それは宗司先輩のお父様で、杵島グループの杵島 巧三会長だった。 因みに今は、入院中の宗司先輩の代わりに杵島グループの社長として会社の運営を担っている。 とはいっても、宗司先輩が入院する前───宗司先輩が社長
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